「野田の藤」の起源

「野田の藤」は既に鎌倉時代初期には、現在の大阪市福島区玉川付近に繁茂していたと思われます。 本来、山の木であるフジが、海岸近くに自生し初め、それが近世まで生きながらえたのには幾つかの偶然と幸運に恵まれたからです。

往古の昔、大阪市域の大部分は上町台地を除いて「ちぬの海」と呼ばれる海の底でした。 古墳時代になると古大和川と淀川から運び込まれる土砂が堆積し始め、広大なデルタ地帯を形成し始め、「浪速の八十島」と呼ばれる島々が次々と姿を現し始めました。 ある時、その島のひとつに何本かのフジの木が土砂と共に流れ着き、たまたま日当たりのよい入り江にの周辺に根付きました。

 そのフジの蔓は、地面を這って伸び、先ずは低木を踏み台にして伸び上がり、次第に大きな木にからまりついて成長し始めました。 そこから延びた蔓はさらに地上を這って地上茎を伸ばし四方に広がっていき、地面にまた新しい根を根付かせた。 成長したフジの木は、花を咲かせ、実を結ぶと、やがて、種子を包む鞘は乾燥し勢いよくはじけて種子を遠くに飛ばした。 こうして深い入江の日当たりのいい、疎林に沿って数百年の間にフジは一面に広がっていきました。 平安時代末には、この島は「野田州」と呼ばれるようになりました。 そこにあった入江は、野田の新家付近から東方に玉川付近まで、約2km伸びており「野田の細江」と呼ばれ、その痕跡は、明治の初期まで残っていました。 このフジは、子から孫、孫からその子へと世代交代を繰り返しながら、この付近一帯に数百年に渡って繁茂していました。 江戸時代には「野田の藤」と呼ばれ全国にその名が知られるようになりました。