江戸に下った「野田の藤」

三代目歌川広重により描かれた『東都三十六景 亀戸天神境内』 この浮世絵の説明に「江戸一番の藤の名所は亀戸天神境内、名所中の名所であり、植えられた品種は大坂から導入された花房の長い野田藤である」と説明されている。この藤は三百五十年前、亀戸天神が建てられた時、植えられたことが知られているので江戸時代初期に野田村からもたらされたのであろう。これが野田村から地方に移植されたと記録に残る最古の藤である。「草木育種」には「摂津野田の藤は長さ四五尺に至る。常の野ふじとは別なり」とされ、各地の野田藤は摂津の野田からきたと思われていた時期もあった。関東の人は、自然に野山に自生する藤を「山藤」または「野藤」と呼び、栽培されている藤を「野田藤」と呼んでいたようである。ヤマフジは兵庫県以西にしか自生していないのに対しノダフジは本州・四国・九州に分布しているので、関東地方のフジは植物分類学的にはすべて「ノダフジ系」である。江戸時代初期の東国人の上方に対する憧憬の気持を込めた呼び方が「野田藤」の名に残っていると考える。このように各地で「野田藤」と呼ばれている一部を除いて、園芸家が野生の藤を栽培し「野田藤」と呼んでいたと想像される。

歌川広重筆 東都二十八景・亀戸天神
歌川広重筆 東都二十八景・亀戸天神

「野田藤」の名が、地元の大坂で初めて文献に出てくるのは『摂陽群談』(元禄14年 1701)である。しかしその6年前の、元禄8年(1695)「ソメイヨシノ」の名で知られる染井(現在の東京都豊島区)の園芸家・三之丞伊藤伊兵衛が刊行した日本最初の総合的園芸本『花壇地錦抄』(江戸版)に、「野田藤・野ふじ・白藤・大豆藤(まめふじ)・ひめふじ」の名が記載されている事がわかった。「野田藤」は、早い時期から江戸の園芸家の間で知られていたのである。しかし、その後発行された『花壇地錦抄』(京都版―この方が発行部数は多いー)には野田藤の名はない。このことから「野田藤」の名は、関西よりも関東地方で有名になった様である。